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それぞれの味わい深さ [雑感]
先日、映画「サイドウェイズ」を鑑賞しました。
ユーモアと含蓄溢れる脚本に、主要俳優陣が演じるキャラクターの魅力、
さらにはナパバレーと言う舞台とワインと言う小物が重要な一役を担っており、
「大人のための映画」と呼ぶにふさわしい作品となっておりました。
映画そのものの感想については改めて機会を作れれば・・・ということで、
今回はその映画のワンシーンで特に印象深かった部分を元に雑感を述べさせてください。
この映画の中で主要キャラクターが4人登場するのですが、
その中で鈴木京香さん演じる麻有子がキャリア上の選択での迷いを、
仕事仲間に吐露するシーンがあります。
一度観た限りのうろ覚えなので、ざっくりとした表現になりますが、
彼女の迷いに対して年輩の仕事仲間が悠々と答える言葉がとても印象的でした。
麻有子は切迫したキャリア上の選択を抱えているのですが、
「何が正解か分からない」と洩らします。
それに対して、
「産み出されたワインに正解とか間違っているというものはない。
あるのは、それぞれに味わい深い、ということだけ。」
と、年輩の仲間は返答するのです。
彼女が仕事上扱うワインを例えにした誠に含蓄ある言葉だと感じたのですが・・・
人というものは常に、何かを選択し、何かを選択しないということを選択しているものです。
日常は、何かしらの選択の連続であるとも言えるのです。
ささいなことではありますが、まず朝に目が覚めて、その時起きるか起きないか、
朝ごはんは食べるのか食べないのか、
そういった小さな選択の繰り返しで日常は出来上がっているのです。
通常その程度のことであれば、「自分が選択をしている」
と言う意識もなく行っていることだと思います。
しかし、例えば、受験、就職、結婚と言った大事になれば、
「どちらに進むべきか」と言う選択をしなければならない、
と意識を持って何かを選び取っていることだと思われます。
そして、そう言った選択を行う渦中で、「何が正しいのか分からない」
と迷いが生じることは、誰にでも一度や二度はある経験ではないでしょうか。
また、もっと大きな迷いが生じるケースと言えば、
「何かがうまくいっていない」と感じるときではないかと思います。
何かを選び取って実行する時、
それは常に「よかれ」と思って行われていることに違いありません。
しかしながら、必ずしもそれがうまくいくとは限らないものです。
自分のやっていることが空回りしているように感じる時、
ひょっとしたら自分の選択が間違っていたのではないか、と言う疑念を持つものだと思うのです。
かつての私、20代最後の三年間ですが・・・まさしくそんな状況でした。
それ以前の私は、どんなに状況が悪くても、
自分の選んだことに後悔したことがなかったんです。
ところが、その時代の私は、自分が好んで進んだはずの道に対して、
初めて後悔してしまったのです。
そして、一つ後悔し始めると、そこに至るまでのあらゆる選択が間違っていたのではないか、
と言う疑念が生じ、全てが裏目裏目に出てしまっているような感覚を覚えたのです。
どこまで自分が戻れば、全てを帳消しにできるんだろう・・・
そんなことばかりを考え続ける日々でありました。
そもそも過去の自分を帳消しにできるはずなどないのですが、仮に消せるものであったとしても、
どこまで戻れば「正解」だった選択に辿り着けるのかも分からない、
自分が行ったあらゆる選択に対して、「もしも」そうしなければ・・・
と言うことを数限りなく問い続けていました。
では、現在の私はどうでしょう。
正直な話、これまでの私が選び取ってきたこと、
そして、現在の私がいる場所に「これでよかった」と言い切れる自信は持てていません。
でも、数年前の自分よりは、少しだけ
「ひょっとしたらこれでよかったのかもしれない」
と、思えているかもしれない・・・というところまでようやく辿り着けました。
その理由は、精神上底辺と言える時代はどうにかこうにか潜り抜け、
その挙句に自分の手には負えないと思っていた難解なパズルのピースが、
少しずつ埋まっていくような出来事が起こり始めているからであります。
しかしながら、自分の選んだことに対して、
正解か不正解か言い切れない・・・と依然として思い続けていたものがあったのですが、
そんな矢先、上記のシーン、言葉に出会ったのです。
そうしたら、ふ~っっと肩の力が少しだけ抜けていく感覚がありました。
そうか。正解か不正解か、じゃないんだって。
あの時あの道を選ばなければ・・・
ひょっとしたら今はこうでなかったのかもしれない。
あるいは同じだったかもしれない。
でも、いずれにしても、それは正解か不正解かというよりも、
どちらを選んだとしてもそれなりの味わい深さがあるものなんだ。。。
もちろん、時にどちらを選ぶかによって人生の明暗を分けることってあると思います。
しかし、人ってここぞと言うときには、その人にふさわしい選択をしているのではないでしょうか。
つまり、「失敗した!」と思えるような選択だったとしても、
それはそのように選択することがその人にとって必要であり不可避であり、
どんな結果を招くとしても、正解と言えば正解だったのではないかと・・・。
だから、どっちが正解か不正解かなんてことで悩むよりも、
自分が何かを選んだら、それを熟成させていかに味わい深くしていくか、
ということだけに心血を注いでいけばよいのだとも。
もちろん、迷う、と言う行為自体にもきっと意味があるのでしょう。
迷いの過程が、きっとその後の味わい深さにもつながっていく。
迷ってもいい、ぱぱっと決めちゃってもいい。
あるいは、流れに身を任せてみる・・・というのもいい。
どのように選択しても、どのような選択をしても、
それはきっと私らしい、あなたらしい、自分の境涯に応じた味わい深さのある、
間違っていない選択なのだと思います。。。きっと。
自分がいつだって自分にふさわしい選択をしているのだと思えば、
自分が思うように、あるいは感じたように、あるがままの自分で選んでいけばいいのです。
よりより選択を行っていきたいと望むのであれば、
いかような選択をするかということよりも、
まずは自分の境涯、器を広げていくしかないのですよね。
いかにして自分の器を大きくしていくかと言うことはまた別の話になると思うのですが、
でも、何かを選んで、その選んだことに対してその都度懸命になること、
そしてその過程を次の選択に活かして行く事。それも必要なことでしょう。
あるがままに。そして、懸命であれ。
これに尽きるかと思われます。
あとはせっかく産み出されたものを、少しでも楽しもうとする気持ち。
甘みのあるワイン。パンチのあるワイン。酸っぱいワイン。渋いワイン。ほろ苦いワイン。
どれもそれ相応の楽しみ方と味わい深さがきっとあるはずなのです。
それぞれの味わい深さを感じ取れる力量を持てたなら。
その暁には、極上のヴィンテージワインを味わえる資格を与えられるかもしれません。
ユーモアと含蓄溢れる脚本に、主要俳優陣が演じるキャラクターの魅力、
さらにはナパバレーと言う舞台とワインと言う小物が重要な一役を担っており、
「大人のための映画」と呼ぶにふさわしい作品となっておりました。
映画そのものの感想については改めて機会を作れれば・・・ということで、
今回はその映画のワンシーンで特に印象深かった部分を元に雑感を述べさせてください。
この映画の中で主要キャラクターが4人登場するのですが、
その中で鈴木京香さん演じる麻有子がキャリア上の選択での迷いを、
仕事仲間に吐露するシーンがあります。
一度観た限りのうろ覚えなので、ざっくりとした表現になりますが、
彼女の迷いに対して年輩の仕事仲間が悠々と答える言葉がとても印象的でした。
麻有子は切迫したキャリア上の選択を抱えているのですが、
「何が正解か分からない」と洩らします。
それに対して、
「産み出されたワインに正解とか間違っているというものはない。
あるのは、それぞれに味わい深い、ということだけ。」
と、年輩の仲間は返答するのです。
彼女が仕事上扱うワインを例えにした誠に含蓄ある言葉だと感じたのですが・・・
人というものは常に、何かを選択し、何かを選択しないということを選択しているものです。
日常は、何かしらの選択の連続であるとも言えるのです。
ささいなことではありますが、まず朝に目が覚めて、その時起きるか起きないか、
朝ごはんは食べるのか食べないのか、
そういった小さな選択の繰り返しで日常は出来上がっているのです。
通常その程度のことであれば、「自分が選択をしている」
と言う意識もなく行っていることだと思います。
しかし、例えば、受験、就職、結婚と言った大事になれば、
「どちらに進むべきか」と言う選択をしなければならない、
と意識を持って何かを選び取っていることだと思われます。
そして、そう言った選択を行う渦中で、「何が正しいのか分からない」
と迷いが生じることは、誰にでも一度や二度はある経験ではないでしょうか。
また、もっと大きな迷いが生じるケースと言えば、
「何かがうまくいっていない」と感じるときではないかと思います。
何かを選び取って実行する時、
それは常に「よかれ」と思って行われていることに違いありません。
しかしながら、必ずしもそれがうまくいくとは限らないものです。
自分のやっていることが空回りしているように感じる時、
ひょっとしたら自分の選択が間違っていたのではないか、と言う疑念を持つものだと思うのです。
かつての私、20代最後の三年間ですが・・・まさしくそんな状況でした。
それ以前の私は、どんなに状況が悪くても、
自分の選んだことに後悔したことがなかったんです。
ところが、その時代の私は、自分が好んで進んだはずの道に対して、
初めて後悔してしまったのです。
そして、一つ後悔し始めると、そこに至るまでのあらゆる選択が間違っていたのではないか、
と言う疑念が生じ、全てが裏目裏目に出てしまっているような感覚を覚えたのです。
どこまで自分が戻れば、全てを帳消しにできるんだろう・・・
そんなことばかりを考え続ける日々でありました。
そもそも過去の自分を帳消しにできるはずなどないのですが、仮に消せるものであったとしても、
どこまで戻れば「正解」だった選択に辿り着けるのかも分からない、
自分が行ったあらゆる選択に対して、「もしも」そうしなければ・・・
と言うことを数限りなく問い続けていました。
では、現在の私はどうでしょう。
正直な話、これまでの私が選び取ってきたこと、
そして、現在の私がいる場所に「これでよかった」と言い切れる自信は持てていません。
でも、数年前の自分よりは、少しだけ
「ひょっとしたらこれでよかったのかもしれない」
と、思えているかもしれない・・・というところまでようやく辿り着けました。
その理由は、精神上底辺と言える時代はどうにかこうにか潜り抜け、
その挙句に自分の手には負えないと思っていた難解なパズルのピースが、
少しずつ埋まっていくような出来事が起こり始めているからであります。
しかしながら、自分の選んだことに対して、
正解か不正解か言い切れない・・・と依然として思い続けていたものがあったのですが、
そんな矢先、上記のシーン、言葉に出会ったのです。
そうしたら、ふ~っっと肩の力が少しだけ抜けていく感覚がありました。
そうか。正解か不正解か、じゃないんだって。
あの時あの道を選ばなければ・・・
ひょっとしたら今はこうでなかったのかもしれない。
あるいは同じだったかもしれない。
でも、いずれにしても、それは正解か不正解かというよりも、
どちらを選んだとしてもそれなりの味わい深さがあるものなんだ。。。
もちろん、時にどちらを選ぶかによって人生の明暗を分けることってあると思います。
しかし、人ってここぞと言うときには、その人にふさわしい選択をしているのではないでしょうか。
つまり、「失敗した!」と思えるような選択だったとしても、
それはそのように選択することがその人にとって必要であり不可避であり、
どんな結果を招くとしても、正解と言えば正解だったのではないかと・・・。
だから、どっちが正解か不正解かなんてことで悩むよりも、
自分が何かを選んだら、それを熟成させていかに味わい深くしていくか、
ということだけに心血を注いでいけばよいのだとも。
もちろん、迷う、と言う行為自体にもきっと意味があるのでしょう。
迷いの過程が、きっとその後の味わい深さにもつながっていく。
迷ってもいい、ぱぱっと決めちゃってもいい。
あるいは、流れに身を任せてみる・・・というのもいい。
どのように選択しても、どのような選択をしても、
それはきっと私らしい、あなたらしい、自分の境涯に応じた味わい深さのある、
間違っていない選択なのだと思います。。。きっと。
自分がいつだって自分にふさわしい選択をしているのだと思えば、
自分が思うように、あるいは感じたように、あるがままの自分で選んでいけばいいのです。
よりより選択を行っていきたいと望むのであれば、
いかような選択をするかということよりも、
まずは自分の境涯、器を広げていくしかないのですよね。
いかにして自分の器を大きくしていくかと言うことはまた別の話になると思うのですが、
でも、何かを選んで、その選んだことに対してその都度懸命になること、
そしてその過程を次の選択に活かして行く事。それも必要なことでしょう。
あるがままに。そして、懸命であれ。
これに尽きるかと思われます。
あとはせっかく産み出されたものを、少しでも楽しもうとする気持ち。
甘みのあるワイン。パンチのあるワイン。酸っぱいワイン。渋いワイン。ほろ苦いワイン。
どれもそれ相応の楽しみ方と味わい深さがきっとあるはずなのです。
それぞれの味わい深さを感じ取れる力量を持てたなら。
その暁には、極上のヴィンテージワインを味わえる資格を与えられるかもしれません。
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